花筺公園保勝会

花筐公園の景勝を守る民間団体。

四季を通じて草木の植栽、育成に関する事業、継体天皇ゆかりの薄墨桜の保存活動、語り部の育成や桜&もみじの名勝花筺公園を紹介しています。

西川知事出席のもと保勝会の会員と共に納まる植樹祭の記念写真です。
継体天皇即位1500年記念植樹祭の記念写真 2009/3/22

FBCかがやき基金 準大賞(応援金200万円)受賞(テーマまちおこしまちづくり)

さまざまな分野で活躍する個人・団体を応援する「第5回かがやき基金」の準大賞を受賞し、応援金2,000,000円を頂きました。

 

 70年にわたる花筐公園の自然の保全活動と、桜と紅葉の植栽管理、花筐薪能など地域おこしの活動が認められた結果と、花筐公園保勝会会員一同喜んでいると同時に、おの応援金を将来を見越した事業に活用するとともに、安定した活動の継続を目指します。

 

 

 

平成28年12月10日FBCのかがやき基金の第5回贈呈式が福井放送で行われました。

受賞団体

かがやき大賞 賞金 500万円 三國會所

かがやき準大賞賞金 200万円 花筐公園保勝会  東郷ふるさとおこし協議会

かがやき賞  賞金 100万円 学生との連携によるうるしの里活性化推進事業実行委員会

               殿下の里づくり組合 

花筐公園の歴史


1830年 「皇子ケ池」造園

継体天皇崩御1300年を記念して木津成助氏が資材を投じて造園す。

弘化元年(1844)「桜が丘」と命名す。

関甚平氏が大和の国吉野より数十本の桜の木を持ち帰り現在地付近に植える。

明治6年(1873年)粟田部大火により公園にも甚大な被害。

岡太神社をはじめとする仏閣が消失。

明治28年(1895)「桜の名所」として歩みだす。

未曽有の台風に見舞われて岡太神社の背後の山が崩落し敷地損傷、拝殿の現在地への移転など甚大な被害発生。その後、有志が力を併せ復旧を図り同時に桜を植樹し現在の花筐公園上段広場が完成した。

大正10年(1921年)「保友会」発足

数名の有志により花筐公園保勝会の前身となる保友会が歩みだす

 

昭和初期には名実ともに県下屈指の「桜の名所」としての位置づけがすすんだ。

地域の有志の熱意により毎年改良を重ねて続けてこの頃、県下屈指の桜の名所として知られるようになる。

昭和10年(1935年)花筐公園保勝会 発足…町営

時勢の推運にともない町営となる。目的…アクセスと設備改善、観光客増、神苑の風致を永遠に保存する。初代会長 木津利平氏…町長…会長は歴代会長が就任する

昭和20年(1945)「芋畑」すべての桜伐採

戦争による食糧難を解消するため桜は伐採され公園広場は芋畑となる。…芋公園と呼ばれる

昭和25年(1950)花筐公園の再生に向けて活動開始

戦場から帰郷した青年たちを中心に芋畑に桜を植え公園を再生させる活動が始まる。

昭和30年(1955)「花筐ゆかりの碑」建立

粟田部の歴史を彩る背景となった世阿弥創作の謡曲「花筐」の舞台であることを内外に証明する出来事となった。

宝生流17代家元宝生九郎の筆による。

 


昭和41年(1966)「名勝花筐公園」の碑建立。

公園入口に建立されている碑は、粟田部と縁の深い第16代福井藩主松平春嶽公の直孫の松平永芳(靖国神社宮司)の筆によるもの。福井城ご本丸の石垣に使用されていた石で、花筐公園保勝会が、建立したものである。


昭和45年3月(1970)薄墨桜‐県の天然記念物に指定

昭和45年3月花筐公園の薄墨桜が県の天然記念物に指定される。

昭和49年(1974)名勝花筐公園(県指定)

地域の努力が認められ風致公園として指定された。

平成15年(2005)植樹「うららの木」運動

県内外、地区の篤志家に呼びかけ大規模な植樹運動が立ち上がり、うららの木として植樹されました。

春は桜、秋はモミジの名所として発展することを願い多数の樹木が植えられた。

平成19年(2007)国の登録記念物に登録。

地域住民の絶え間ない努力が認められ国の登録記念物になった。地域の大きな誇りとなっている。


花筐公園保勝会の歴史


昭和10年の設立趣意書

【解説】

花筐公園保勝会設立趣意書

我が粟田部はその昔大迹の皇子ご上洛の御記念に植え給いし、桜の樹は今尚薄墨桜または花筐桜と称して、皇谷山の渓上にそびえる老神木これなり。

その後、継体天皇を祭れる岡太神社の境内及びその付近の山谷に桜を植樹して、神苑の美が加わり、いつの頃か世人はその美観を讃へて誰謂うとなく粟田部の公園と称するに至り、当町の先輩が集まり公園を独立して花筐公園と改称して来たが、時勢の進運に伴い遂にこれを町営とした。

以来公会堂の建築、忠魂碑の設立、石清水観世音の安置、薄墨桜への新道の開拓等などに因り一段の風致を添えたのみならず、付近に皇子が池あり、佐山地、象頭山、大山諏訪前、中林、玉の尾、皇谷一帯の風致林を背景とし、南には日野山脈に連なる群嶽を望み、春は桜花、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色など四季の変化に富んだ風光は県下に冠絶するものなり。

ゆえに各地より観光の為に、または、神徳景仰の為に吟遊参拝せらる人々が年を追うごとに増加するに至りました。このときにあたり、有志相謀り花筐公園保勝会を設立して、一つは公園道路の改善と設備を完備し遊覧客の便を図りたい。二つ目はこの光栄の歴史ある神苑の風致を永遠に保存せんことを期す。

幸いにこの趣旨を賛同して入会し、以て愛郷の想いを披歴せられしことを懇望す。

 

発足時の会則

昭和10年度(初年度)収入決算報告書

収入 1076円47銭

支出 1058円19銭

当時の物価から推察。

当時の100円は現在の20万~50万円位なので、100円を30万円と仮定すると。

収入1058円は3,174,000円となります。当時の会員の財力凄いですね。

 

ちなみに当時の大卒の初任給は90銭でした。現在20万円位でしょうか。